400mハードルで注目を集める井之上駿太さん。
華やかな記録の裏には、どんな日々の積み重ねがあったのでしょうか?
井之上さんが陸上と出会った中学時代から、高校・大学での挑戦をまとめました。
プロフィール
項目 | 内容 |
---|---|
氏名 | 井之上 駿太(いのうえ しゅんた) |
生年月日 | 2002年7月4日(23歳・2025年現在) |
出身地 | 大阪府 |
所属 | 富士通 陸上競技部 |
専門種目 | 男子400mハードル |
自己ベスト | 48秒46(2024年 日本学生対校選手権) |
主な戦績 | – 2024年 Yogibo Athletics Challenge Cup 優勝 – 2025年 日本選手権 3位 – 東京2025世界陸上 日本代表 |
学歴
学歴区分 | 学校名 | 備考 |
---|---|---|
中学校 | 非公開(大阪府内の中学校と推定) | 中学1年で陸上競技を開始 |
高校 | 洛南高等学校(京都府) | 全国有数の陸上強豪校。400mで頭角を現す |
大学 | 法政大学(東京都) | 法政大学陸上競技部に所属。400mハードルに本格転向 |
社会人 | 富士通 陸上競技部 | 実業団選手として活躍中(2025年現在) |
洛南高校は、駅伝や短距離でも有名な名門校で、井之上選手もここでスプリント力を磨いたそうです。
スプリント力は短距離を速く走る能力。
サッカーやバスケットボール選手にも必要ですよね。
日常生活でもスプリント力が必要な場面有るかもしれません。
中学時代
きっかけは友達のひと言
中学1年生の頃、野球部に入ろうか迷っていた井之上さん。
そんな時、友人から「陸上部に入ろうよ」と誘われたことで、陸上人生がスタートしました。
実は小学生時代に才能の片鱗が…
小学生の頃、走り幅跳びで市の大会で優勝した経験があり、陸上にはもともと素質があったそうです。
最初は走り幅跳びからスタート

陸上部に入部してからは、まず走り幅跳びに取り組みました。
その後、顧問の先生の助言を受けて100m・200mへと種目を変更。
種目変更というのは、時に勇気のいる決断。
でも、井之上さんはその変化を前向きに受け入れ、自分の可能性を広げていきました。
「やってみたら、意外と合っていた」
そんな経験、誰しも一度はあるのではないでしょうか。
自分の得意分野に気づけた瞬間って、ちょっと世界が広がるような感覚がありますよね。
良き指導者との出会い
中学時代の顧問の先生の言葉を素直に受け入れ、愚直に練習を続けたことで、競技者としての土台が築かれていきました。
先生の言葉を信じて、ただひたすら前を向いて走り続けた日々。
その一歩一歩が、井之上選手の競技人生の土台となり、今の力強い走りにつながっている。
そう思うと、なんだか胸が熱くなります。
高校時代
洛南高校への進学
「強くなるため、輝くためにはこの学校しかない」
そう語って選んだのが、京都の名門・洛南高校。
全国レベルの選手が集まる環境に飛び込み、競技者としての覚悟を決めました。
1年生:圧倒される日々
中学時代はチームの中心として活躍していた井之上さんですが、
高校では先輩や同期のレベルの高さに驚き、ついていくのに必死な日々。
それでも、刺激的な環境の中で少しずつ自分のスタイルを築いていきました。
2年生:個人種目でインターハイ出場
努力が実を結び、個人種目でインターハイに出場。
リレーでは優勝も経験し、「自分の描いていた競技生活が現実になった」と語るほどの充実感を得ました。
3年生:主将としてチームを牽引
競技力では他の選手に劣っていたものの、人間関係やチームづくりに力を注ぎ、主将としてチームをまとめました。
しかし、コロナ禍でインターハイが中止に。
代替試合でも結果が残せず、悔しさを抱えたまま高校生活を終えることに。
標から逆算して今やるべきことを考える。
この考え方は、今でも井之上さんの競技スタイルの根幹になっています。
井之上さんの高校時代は、ただ速くなるだけではなく、「どう生きるか」「どう向き合うか」を学ぶ時間だったように感じます。
特に印象的なのは、「競技力ではなく、人間力でチームを支えた」という姿勢。主将としての役割を全うしながら、悔しさも味わった3年間は、彼の走りに深みを与えているように思えます。
そして、「答えを作ってから式を作る」という教えを胸に、目標に向かって逆算して努力する姿勢は、まさに“競技者としての哲学”。
この考え方が、今の井之上選手の力強く、迷いのない走りにつながっているのだと思うと、胸が熱くなります。
大学時代
法政大学への進学

チーム重視の高校から、個人の自由を尊重する法政大学へ。
1年生:迷いと模索の時期
大学に進学してからは、高校時代のように“決められた練習をこなす”スタイルではなく、与えられたメニューをどう自分で消化し、工夫して取り組むかが問われる環境に変わりました。
その変化に戸惑いながらも懸命に向き合う日々。
しかし、思うようにタイムは伸びず、次第に陸上の楽しさや手応えを感じられなくなっていった時期もあったそうです。
競技に真剣に向き合っているからこそ、結果が出ないときの苦しさは深いもの。
「好きだったはずの陸上が、少し遠く感じる」
そんな感覚、部活や趣味に打ち込んだことがある人なら、きっと一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
でも、井之上さんはその迷いの中でも立ち止まらず、自分なりの答えを探し続けました。
その姿勢こそが、今の彼の強さにつながっているように思います。
転機:400mHとの出会い
自己ベストを求めて始めた400mハードル。
彼の競技人生を大きく変えることに。
実は高校3年生のときに一度だけ興味本位で出場した経験があり、その記憶が心のどこかに残っていたそうです。

大学でタイムが伸び悩み、陸上の魅力を見失いかけていた時期に、「新鮮で楽しい」と感じられる400mハードルが、彼にとっての再スタートとなりました。
2年生:怪我と再起
6月に怪我を経験し、自分の体と向き合う時間が増えたことで、練習の質や考え方が大きく変化。
復帰後は徐々に結果が出始め、7月末の記録会で自己ベストを更新。
初めて自力で全国大会(全日本インカレ)の出場権を獲得しました。
怪我は、アスリートにとって最大の壁のひとつ。
でも、井之上さんはその壁を“学びの場”に変えました。
「どうすればもっと効率よく、自分に合った練習ができるのか」
そんな問いを持つようになったことで、競技への向き合い方も深まり、結果的に自己ベスト更新という形で花開いたのです。
そして何より、自力で全国大会の切符をつかんだという事実が、彼の努力と変化の証。
痛みを知ったからこそ、強くなれた…そんな言葉がぴったりです。
覚悟の芽生え
全日本インカレでは予選落ちだったものの、自己ベストを更新し「400mHの選手として生きる」という覚悟が芽生えた瞬間に。
新潟のYogibo Athletics Challenge Cupで、49.77秒という驚異的なタイムを記録。
歩数調整や逆足の工夫が功を奏し、彼自身も「今までで一番驚いたレース」と語っています。
大学時代の井之上さんは、ただ速くなるだけでなく、「なぜ走るのか」「どう走るのか」を深く問い続けた時間だったように感じます。
怪我や不調、迷いの中で見つけた400mHという種目は、彼にとって“自分らしく走れる場所”だったのかもしれません。
そして、結果が出たことで「競技者としての覚悟」が芽生えたという言葉には、彼の芯の強さと誠実さがにじんでいます。
この覚悟が、今の彼の走りの力強さや、見る人の心を動かす魅力につながっているのだと思うと、胸が熱くなります。
まとめ
友人の誘いで陸上部に入部したことが、井之上さんの競技人生の始まりでした。
もっと強くなりたい!
その思いから、名門・洛南高校への進学を決意。
高校時代は決められたメニューをこなす日々でしたが、大学では“自分で考えて取り組む”スタイルに戸惑い、思うような結果が出ず、怪我にも悩まされました。
それでも、立ち止まることなく自分の体と向き合い、練習の質や考え方を見つめ直すことで、少しずつ光が差し始めます。
そして出会ったのが、400mハードルという新たな種目。
「これだ」と感じた瞬間から、競技者としての覚悟が芽生え、今はその思いを胸に、日々の練習に真摯に向き合っています。
7月末には自己ベストを更新し、初めて自力で全国大会(全日本インカレ)の出場権を獲得。
そして今、彼が見据えるのは世界陸上。

世界の舞台でどんな景色を見せてくれるののか。期待せずにはいられません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。 yuzuhana
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